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【伝承】太陽光発電技術研究組合 桑野幸徳 名誉顧問(元三洋電機代表取締役社長):太陽光発電業界の父が描いた2050年の姿――「エネルギー安全保障、地球環境問題、経済合理性すべてを突破する。無限の可能性を秘めた太陽光発電の普及拡大、主力電源化がこれから始まる」

2026.01.05

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事実は小説よりも奇成り―。これは太陽光発電に人生を捧げた漢の話である。偶然か必然か。ひとりの狂人的とも言える情熱が世界を変えた、と言っても過言ではない。紛れもなく業界の起点の一つとなった、そんなストーリーである。

■先人たちがめざした夢のエネルギー

遡ること半世紀前。もはや歴史の1頁として刻まれる「第一次オイルショック」。1973年のことだった。中東戦争を契機に原油価格が約5倍に急騰、物価高騰だけでなく「全国のスーパーからトイレットペーパーや洗剤がなくなる」といった買い占めや社会混乱が発生。急激なインフレは経済活動に打撃を与えると共にエネルギーセキュリティの重要性を痛感させた。

代替エネルギー源の開発。その必要性が叫ばれ国家プロジェクトとして1974年に策定されたのが「サンシャイン計画」だった。太陽エネルギー(太陽光発電、太陽熱発電等)、地熱、石炭液化・ガス化技術、水素、風力、海洋温度差発電、バイオマスといった分野の構築が重点的に計画された。

中でも「太陽光発電はシャープの早川徳次氏、京セラの稲盛和夫氏、パナソニックの松下幸之助氏、三洋電機の井植歳男氏など名だたる名経営者が実現させんと開発に注力した夢のエネルギーだった」という。

70年代後半。この危機的な状況は為政者に振り回された一過性だったのかもしれない。石油価格の安定で代替エネルギー開発は下火となった。多くのメーカーが脱落したとされる。

だが、中長期的な視点を内包した同計画は継続。「太陽電池が世界を救う」という信念は途絶えなかった。当時、太陽電池研究は結晶系が主流だったが、桑野氏らは新材料であるアモルファスに着目し研究を進めた。

「とはいえ、電力利用にはほど遠い。そこでまずはコスト削減が進むまでの間、民生用での需要と太陽光発電の認知度を上げることを考え、ソーラー電卓や腕時計といった民生用に応用した」と振り返る。80年代のことである。今もなおこれらのエレクトロニクス商品には太陽電池が搭載されているが、その出発点も此処に在る。

勝ち筋はあった。習熟曲線という考え方がある。半導体製品は累積生産量が増えるほど、製造コストが一定の割合で低下していくというもの。太陽電池は半導体の一種であるため理論的には大幅なコスト低減が可能であると認識されていた。

サンシャイン計画においては70年代当初~3万円/Wから2000年代に~100円/W以下という目標値が掲げられていたが、実に1/100以下という壮大な計画だった。

■自宅を実証施設に、日本初の逆潮流ありの系統連系を実現

転機が訪れたのは90年代に入ってのこと。地球温暖化、酸性雨による環境破壊問題が顕在化。太陽電池が再び脚光を浴びる。と同時に「実用的な大きさの太陽電池(モジュール)で発電効率が10%を超えるものが生産できるようになっていた」。

この時代、太陽光発電が全く使われていなかったわけではない。人工衛星、灯台、電波灯など独立電源として利用されていたが、電力系統への接続は認められていなかった。

そこで桑野氏は自身の、いや同時代的な研究者たちの夢であった「自宅での太陽光発電」を計画する。「屋根の上に設置した太陽電池で発電した電力(直流)を交流に変換し、家庭内に供給、電気製品を動かし、余れば電力会社の電力線に供給することを可能にする仕組み」を構想した。

「太陽電池は日中発電するもの。蓄電池が必須であることが織り込まれていた。ただ、一般家庭に普及させるには高額であった。そこで電力系統を巨大な蓄電池に見立てることでコストの壁を乗り越えようと考えた」

一人だけの夢ではなかった。太陽電池業界は通商産業省(現・経済産業省)、電力会社(関西電力)に働きかけた。1992年7月31日。桑野氏は自宅に太陽光発電を設置し、日本初となる逆潮流ありの系統連系『桑野太陽光発電所』を実現させたのだった。

「この実験的な取り組みが欧州FIT導入のキッカケとなった。2000年にドイツでFIT制度がスタートする。各国が生産と開発を進め05年には世界の年間生産量が1GWを超えるなど市場は拡大期に突入していくことになった」

個人住宅用補助金制度の創設、公共施設等用太陽光発電フィールドテストなど太陽電池業界の進化に向け桑野氏らは尽力。『電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法(RPS法)』(2003年)や余剰電力買取制度(2009年)に繋がっていく。同時代まで日本は太陽電池の世界生産No.1を誇っていた。

■欧州モデルを逆輸入、主力電源への道筋が拓ける

2011年3月11日。「電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法(再エネ特措法)」が閣議決定される。我が国の再エネ推進は決まっていた。

奇しくも未曾有の大災害として記憶される東日本大震災が発生。福島第一原子力発電所事故。再エネ推進の機運は高まり欧州FITを逆輸入することで太陽光発電を中心とする自然エネルギーの普及拡大へと向かった。業界人であれば「固定価格買取制度(FIT制度)」が導入された12年以降の荒波は周知の通りである。

歴史に「もし」は無い。ただ、振り返れば92年、日本初の系統連系が無ければ、今の市場は無かったかもしれないと言えはなくはなかろうか。桑野氏が投じた一石は大きな波紋となり現代へと続く。

『桑野太陽光発電所』はその後どうなったのか。これについてはまた別の機会で詳報したいところだが、設置後20年、25年、30年と稼働し続けた。「実際、20-25年持てば良いのではないかと思っていたが太陽光の可能性が優った」という。

■太陽光発電業界の父が描いた『シェネシス計画』とは?

壮大なストーリー。実はここまでが伏線である。何が桑野氏を突き動かしてきたのか。

1989年。桑野氏は「家庭の屋根、ビルの屋上、工場の屋根等に太陽光発電を設置し、最終的には世界の砂漠の僅か4%の面積に太陽電池を敷き詰めれば、全人類が必要とするエネルギーの全てを賄うことが出来る」という『ジェネシス計画』を国際学会で発表している。

「太陽光発電を普及させるため自宅に太陽電池を設置したわけだが、その前段としてジェネシス計画が実現できると考えていた」

つまりは、氏が描いた構想や夢が先にあり、自宅に太陽光を設置した。太陽電池開発を担ったのは偶然かもしれないが、それは必然だった。

「地表に到達するたった1時間の太陽エネルギーで全人類の消費する1年分のエネルギーを賄える」

「仮に100GWの導入量を原油換算すると年間の原油削減量は数千万kLとなり、金額ベースでは兆円単位にのぼる。これを20年で考えると?」

太陽光発電の燃料費はタダ。

その無限の可能性を問いかける。

まさに今、我々はこの地図の真っ只中にいるのかもしれない。

「『人と・地球が大好きです』これは嘗て三洋電機が掲げた企業メッセージ。この理念は今も強く共感でき、私もそれを体現したい」

「『日本は競争に敗れた』という見方もあるが、そうではない。我々、太陽光発電業界全体で地球を救うのだ」

インタビューの最後にこう話した桑野氏の視線は次の100年を見据えているかのようだった。

〔略歴〕
桑野幸徳(くわの ゆきのり)氏: 1941年生まれ。熊本大学卒。大阪大学工学博士。1963年に三洋電機入社後、半導体研究を経てアモルファスシリコンに着目。集積型a-Si太陽電池の量産化に世界で初めて成功し、民生用途を中心に市場を創出した。三洋電機代表取締役社長、太陽光発電技術研究組合名誉顧問、大阪大学客員教授、大和ハウス工業取締役などを歴任。系統連系実証、産学官連携を主導し日本の太陽光発電の礎を築いた「太陽光発電業界の父」として知られる。太陽電池の研究開発に関する業績で科学技術長官賞、PVSEC AWRD等受賞。著書に『太陽電池開発の歴史』『自宅できるソーラー発電のすすめ』など多数。

〔参照〕
サンシャイン計画 50周年記念 特設サイト
総合版桑野太陽光発電所30周年記念会〔YouTube〕